歴史地図板

歴史地図板 HISTORY MAP BORD

1590年(天正18年)
家康入場 1590(天正18年)

芦が一面に生える沼地に、平川が流れ、田や畑があります。平川の上流には小石川大沼があります。

徳川家康は、関東平野の中央に位置し周りには川が流れていて、防御には最適、海に面して港を作りに好都合と、江戸の小さい田舎のお城を居城にしました。

家康は、城を出て土地の事情を尋ねた農民の名前が、飯田喜平衛というので、このあたりの土地を飯田町と名付けました。

1863年(文久3年)
江戸の終わり1863年(文久3年)

江戸時代の飯田町は、田安御門、牛込御門、小石川御門にかこまれ、そこには比較的上級身分の旗本屋敷がありました。また、商家も立ち並び、武家相手の商売でにぎわわっていました。また、当時の人から台所町と呼ばれて、江戸城の料理を作る人々が住んでいた所もありました。

江戸時代も末期になると、尊王攘夷で江戸幕府に対抗する人達に対して、逆に幕府は浪士や町民、農民を集めて浪士隊をつくり、街の警備にあたらせました。それが、後に新微組となり、その詰所が飯田町にありました。

1872年(明治5年)
明治のはじめ 1872年(明治5年)

江戸時代に旗本の町だった飯田町は、旗本の大半が駿府に帰ったあとは、さびれるばかりでした。

旗本屋敷は新政府によって取り壊され、雑草が生い茂り、乞食が住み荒れ野のようでした。

新政府は、この空地(明地)に桑や茶を栽培させる政策をとりました。しかし、栽培する人は素人ばかりで枯らせる事が多く、明治5年にはこの政策を中止しました。

1897年(明治30年)
日清日露の戦いにはさまれて 1897年(明治30年)

空地の後には、多くの学校が開校しました。

飯田町駅を始発駅にして八王子迄の甲武鉄道(明治27年)が開通しています。町には大八車が走り、川には船が行き交います。牧場(北辰社牧場))もあります。

急坂の九段坂では、大八車を押す押屋がいました。
明治18年博愛社病院として移って来た日本赤十字社は、明治45年まで飯田町にありました。

明治39年には、飯田町に市電が開通します。

1976年(昭和51年)
昭和の飯田橋 1976年(昭和51年)

飯田町という名前も、昭和41年10月1日に飯田橋に変わりました。都電も、昭和43年9月29日になくなりました。

昭和51年1月には、飯田橋の町に住んでいる人は、2741人です。風呂屋も1軒しか残っていません。その風呂屋もこの後しばらくしてなくなります。

飯田橋にはバッチやカップを作る会社がたくさんあります。その会社の創始者は、明治時代からあった日本帝国徽章商会で働いていた人達です。