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歴史の標柱

歴史の標柱 RANGING POLE OF HISTORY

つなぎ馬クン
つなぎ馬クン

ここにこんなものがあったのか
繋がれていなけりゃ散歩するんだけど💦

歴史のプロムナード プロローグ

昔々、縄文時代の頃、このあたりは波の打ち寄せる入江でした。その後、海は後退して、葦の生い茂る広い湿地となりました。徳川家康が江戸に来て大規模な築の城工事が行われ、このあたりは湿地から旗本屋敷にかわりました。九段坂、中坂を中心とした元飯田町は、町人の町として 賑わいましたが、明治になって旗本屋敷の後は住む人もなくなり、一時は大変さびれました。しかし、次第に賑わいを取り戻し、現在のようなビル街に変わりました。この飯田橋散歩路に標柱を建て、この町の移りかわりを示します。


飯田橋

江戸時代、千代田区側は外堀の城壁である土居にかこまれて、この目白通りも飯田橋もありませんでした。明治初年(1868)に簡単な木橋がかけられましたが、明治14年(1881)に土居が掘切られて車の通行ができる橋になりました。明治23年(1890)には鉄製の橋にかわり、昭和4年(1929)に現在の橋がかかりました。飯田橋と言っても町の名前ではありません。JR飯田橋駅の新宿側の橋の名前です。その向こう側に船河原橋があります。こちらの橋の方が、飯田橋より古いのかもしれません。現在の飯田橋という町は、以前は飯田町と言われていました。戦後の町名変更で飯田橋となって、飯田町という町名は残っていません。


東京農業大学開校の地

明治24年(1891)、この地、旧東京市麹町区飯田町河岸十番地に東京農業大学の前身育英黌農業科が徳川育英会により設立されました。初代黌主は榎本武揚でした。明治25年(1892)、現在の中央線である甲武鉄道の新設工事、また農場用地取得のため大塚窪町に移転しました。


日本大学開校の地

明治22年(1889)、ここ皇典講究所内に維新の志士、吉田松陰門下、時の司法大臣である山田顕義により日本法律学校が創立されました。 これは、日本大学の前身にあたります。明治28年(1895)に三崎町に移りました。


東京府立第四中学校発祥の地

明治34年(1901)、東京府立第四中学校が、この地にありました。同所は明治15年(1882)に国学を研究する目的で設けられたもので、明治21年(1888)に同じ地内に開設された補充中学校が、共立中学校、東京府城北尋常中学校と名を変えて府立第四中学校となったものです。その後、府立四中は明治37年(1904)に市ケ谷加賀町に移転し、戦後は新宿区戸山町に移り東京都立戸山高等学校となっています。


國學院大學開校の地

明治15年(1882)、この地、旧飯田町5丁目に国学を研究する皇典講究所が設けられました。明治23年(1890)、皇典講究所を母体として、所長山田顕義によって國學院が開校しました。現在の國學院大學です。大正12年(1923)、渋谷に移りました。


甲武鉄道飯田町駅

明治22年(1889)、新宿-八王子間に甲武鉄道が開業し、同28年(1895)には市街線として延長され、飯田町駅が開業し現在の中央線の始発駅となりました。同37年(1904)我が国で初めて飯田町-中野間で電車が運転され、円板型自動信号機が設置されました。その後甲武鉄道は御茶ノ水方面に延長されました。同39年(1906)、甲武鉄道は国有化され、昭和8年(1933)に飯田町駅は貨物専用駅となりました。この奥のホテルエドモントが旧駅構内で、改札口は小石川側にありました。


日本赤十字社跡

明治10年(1877)西南の役の時、佐野常民は博愛社を結成し、傷兵の救護活動を開始しました。明治19年(1886)、旧麹町区飯田町四丁目、現在のJR飯田町駅のところに博愛社という病院を建てました。その年、日本は国際赤十字条約に加入し、翌20年博愛社は日本赤十字社と名を改めました。明治27年(1894)、甲武鉄道が飯田町駅を建設するため立ち退き、この地に移転、大正元年(1912)に芝に移るまでここにありました。


新徴組屯所跡

文久2年(1862)に出羽浪人清河八郎によってつくられた浪士組は新徴組と名を改め、ここの武家屋敷を屯所として幕末の警備に当たりました。清河は幕府に献策をして浪士組をつく警護のために上洛しますが暗殺されてしまいます。京に残った浪士組の一派が幕末史に華を添える新選組となります。


徽章業発祥の地

この奥、大神宮通り向かって左側に明治18年(1885)、鈴木梅吉により日本帝国徽章商会が創られました。これは民間の徽章業のはじめで、特に明治末期、大正の初期においては日本で唯一の徽章の製作工場として大変栄えました。現在の徽章業の方々の大多数はこの商会の流れを汲み、徽章業は飯田町の日本徽章商会から生まれたといわれています。そして、現在もこのあたりは徽章業に従事する人が沢山います。


北辰社牧場跡

榎本武揚は明治の始め、北辰社牧場をここに開きました。幕臣榎本は文久2年(1862)オランダに留学を命じられ、当時のヨーロッパ事情や法律、化学などを広く習得しました。幕府が瓦解すると榎本は指揮下の海軍をひきいて函館までも転戦しましたが、黒田清隆や山田顕義らの率いる官軍の軍門に下り、捕われの身となります。しかし、彼の新知識を惜しまれて許され、新政府では幾多の要職を歴任しました。一方、旧幕臣子弟の為の育英黌農業科や北辰社牧場などを作りました。最盛期には乳牛が四,五十頭もいて新しい飲物、牛乳を提供していました。


台所町跡

江戸のはじめから元禄の頃まで、飯田町紙流通センターの所に江戸城の台所衆の組屋敷がありました。そして台所頭をはじめとして、台所衆、台所者と呼ばれる役人が住んでいました。武鑑にお台所頭、四百石、たい所町、鈴木喜左衛門と記されています。その後大名や、旗本の屋敷に移り変わりましたが、なお付近は台所町の名が残りました。


東京女子医科大学発祥の地

吉岡彌生は明治33年(1900)12月5日、この地にあった至誠医院のなかに東京女医学校を創立しました。翌34年4月、同校は牛込区市ケ谷仲之町に移転。のちに市ケ谷河田町へ移転して現在の東京女子医科大学に続きます。吉岡彌生の至誠医院は明治41年(1908)に旧飯田町四丁目31番地に移り、関東大震災までありました。実際は、この道路の反対側なのですが、飯田橋散歩路を修景する時の都合で、この場所に建てさせていただきました。